何に着目すべきか?」のための選書と書評

Nov. 11, 2011

ふたりはいい勝負 −ショヴォー氏とルノー君のお話集(5)−
レオポルド・ショヴォー,福音館書店,2003年

恋人のタコを深く深く想いながら,しかし彼女の肉体の美味しさの誘惑に勝てず,毎晩こっそり足を一本づつ食べ,ついには彼女を自らの胃のなかに永遠に失ってしまう悲しいワニの話.
あるいは悪事の限りをつくし,ついには彼らに息子を殺されたクジラの強烈なビンタによってぺしゃんこになってしまうノコギリザメとトンカチザメの話.

1巻から4巻までは,そんな荒唐無稽で少し残酷なお話を,父ショヴォー氏が幼い息子ルノー君に語り聞かせるという形式で進むこのシリーズですが,最終巻の5巻では状況が一変し,日常生活のなかでの二人のかけあいが物語の中心となります.
つまりこの巻に至ってルノー君は,ショヴォー氏と「いい勝負」を繰り広げるまでに成長したのです.

そんなルノー君は,子どもがいつか老人になるということを「子どもを怖がらせるための大人の嘘」と言い,子どもは「ゴムみたいなもの」でできていて,お年寄りは「木みたいなもの」でできている,と信じ込んでいます.
ルノー君の日常は,僕たちの日常とはやや様相を異にしていて,むしろショヴォー氏の荒唐無稽なお話の世界に近いようですが,それは同時にルノー君によって瑞々しく再発見されるショヴォー氏の日常でもあります.
つまりこの本で語られているのは,二人を通じてそれぞれに隔てられた二つの世界が,対話によってまた一つの世界に生まれ変わる,その過程についてです.



ロストハウス

大島弓子,白泉社文庫,2001年

大島弓子の描く世界では,日常を舞台としながら,おおよそ日常では起こり得ないような事件ばかり起こりますが,それでも登場人物たちは,そのとっぴな事件を日常のなかで淡々と受け止めます.

たとえばこの短編集に収録されている「8月に生まれる子供」の主人公である18歳の女の子は,猛烈なスピードで老化する奇病に侵されながらも,それを日常にある範囲の感情で受け止め,彼女のボーイフレンドである男の子も,彼女の不幸を決して劇画化せず,彼女と会えなくなったことをごく普通にある別れと同じように悲しみます.

だからこのとっぴな事件を中心とした物語にも,感情は簡単に揺さぶられ,僕はこの話を読むとどうしても泣けてきてしまうのですが,それは逆説的に,なにも起こらない日常の中にあるごく当たり前の感情の価値を証明しているように思えます.



2次元より平らな世界 −ヴィッキー・ライン嬢の幾何学世界遍歴−

イアン・スチュアート,早川書房,2003年

平面世界「フラットランド」に住むヴィクトリア・ライン嬢は,ある日次元のはざまに住む「スペースホッパー」という生き物に出会い,考えられうるあらゆる幾何学の世界をスペースホッパーと旅することになります.
たとえば「近づくこと」が「遠ざかること」と同じことになってしまう射影幾何学の世界,原因と結果が奇妙にねじれるミンコフスキー空間,世界の端に近づくほど体が縮んでしまう非ユークリッド幾何学の世界,などなど.
そしてそれらの世界で起こる「あり得ない」できごとは,その世界を形づくっている論理をもってすればすべて説明できてしまうのです.

ところで,数学は世界の成り立ちを説明するために人間がつくった道具のようなものだと思われがちですが,実は数学は現実世界とは全く関係なく,人間が勝手に(しかし論理的に)つくりだした,いわば妄想の世界のようなもので,これがなぜ現実世界とこれほど美しく一致するのかは,現代科学の最大の謎の一つなのだそうです.
事実,ヴィッキーが旅した幾何学の世界は多くの自然現象の中に発見されていることを,本書はさらりと紹介しています.
そう考えると,研ぎ澄まされた思考はまだ見ぬ世界を感知し,発見するアンテナのように機能しているのかもしれません.